ブランドとは、生産者側から見れば「財産」であり、
購買者側から見れば「一種の思考停止」ではないかと思う。
生産者側から見れば、ブランドというのは素晴らしい。
それを持ちさえすれば、勝手にブランドが利益をもたらす。
しかし、生産者側には、そのような「ブランド」を持つことには2つの山を超えないといけない。
まず第一に、ブランドを作るまでが大変だ。
企業がブランドを作るためには、
「何らかの大ヒット商品(ヒット型)」または「常に継続して高レベルのものを出し続ける(信頼型)」必要がある。
前者としては、一発大ヒット作を出してデビューした歌手、一発屋芸人、
後者としては、マリオ/ポケモン/DSを生み出した任天堂、 カイゼンで世界の自動車業界を牽引するトヨタ自動車、消費者を飽きさせない工夫を繰り返すディズニー(オリエンタルランド)などがあてはまるだろう。
第二に、ブランドを維持するのが大変だ。
一度作ったからといって、それに奢り安住してしまうようでは、ブランドは衰退してしまう。
特に、「安心」が求められる食品において顕著であろう。
ブランドに溺れ、改革が甘くなった、雪印や不二家ブランドが地に落ちたことは、記憶に新しい。
まとめると、「この商品を買っておけば安心」という意味での、「常に新たな価値を創造し続ける力」こそが大事である。
要は、「一度の結果」でブランドを作り、それを「二度目、三度目」をすることで維持する。
そして、そのブランドがあるからこそ、「四度目、五度目」を行うのが非常に楽になる。
こういう企業文化こそが、ブランドとなるのであろう。
一方、消費者側からみると、ブランドとは、思考停止なのではないか、と思う。
消費者は常に全てのことに神経を払っていられない。
自分の仕事もあるし、趣味もある。
やりたいことが他にある場合、それ以外のことには、
全力を持って考える、ということはしたくないというのが本音だろう。
「信頼できる何か」に任せて、ある種の委託をしてしまいたい。
そういう意味で、消費者にとってのブランドとは、「期待を常に満たしてくれること」であり、
それ以外にさらに良い選択肢を考えるのが面倒だし(または考えつくした結果として)、
そのブランド商品が現時点において、ベストの選択である、ということなのだろう。
実際、DQやFFといったシリーズが売れ続けるのも、過去の実績から、
緻密なストーリーや戦闘システムで、次回作も楽しめるのが期待されるからであるし、
トヨタを買い続けるのも、トヨタの車なら詳しいことは分からなくても
燃費が良く、しっかり対処してくれるだろう、という漠然とした感覚があるからだろう。
企業としては、多数の一般消費者に対してそのような「漠然とした感覚」を持たせることが重要である。
そういう意味で、ブランド製作者には、
“ニーズを掘り起こす”そして、“あったらいいなを形にする”こと。そしてそれを継続すること。
やる気(Passion)、やり方(Logic)、継続(Continuation)の全てが求められる。
そういう意味で、マーケットインな手法で未知の領域を探し、
プロダクトイン的な商品を送り込むことが必要だろう。
なぜなら、メーカーの方が生産に対して多くの情報をもっているのだから。
ここで、具体的に、「ブランド」で最初に思いつく、空港の免税店にあるような「ブランドショップ」を考えてみたい。
年初にソウルに行った時の話だ。ツアーに連れられ向かった先は、大型免税ショップ。
そこには、所狭しと有名ブランドのカバンやら靴やら服やら時計が並んでいた。
そして、それを買い漁るのは日本人。聞くところによると、今韓国に来る人の目的の大半はショッピングであり、
先日の日経には、「バーバリーでは買いに行っても既に売り切れ」となっているとのことだ。
実際自分が行った時にも、日本人の長い列により入場制限が行われていた。
しかし、俺はそういうブランド品を買い続ける日本人客を見ると、むしょうに歯痒さを感じる。
たとえば、シャネルを例にとってみよう。
シャネルが出た当時は、ココ・シャネルという女性の生き方がブランドだった。
徹底してシンプルを貫き、当時のゴテゴテの服という既成概念を打ち破った。
しかし、彼女無き今、「シャネル」というブランドが良い、という社会的合意こそが
「シャネル」ブランドを成立させているように見える(もちろんシャネル社自身の企業努力もある)。
俺には、購買客の多くが「それなりに使いやすくて…何よりシャネルだから!」という理由で買っているようにしか思えない。
また、ルイヴィトンに至っては、世界中でルイヴィトンを買う顧客の7割が日本人だという。
すごく不思議だ。日本人は全般的に「みんなが持ってるから持つ」というファクター感応度が高い効用関数なのだろう(ブランド品に限って言えば“欧米への憧れ”も)。
並ぶのが好きなのも、みなさんご一緒なのも、同根な気がする。
もちろん、「良いと言われる物を身につける」というところに喜びを感じるかは、人それぞれだし、
共同体意識は素晴らしい。しかし、それが無思考な依存という形で現れているように(俺には)みえる
ものにはいささか疑問だ。
俺が少々機能に対する合理的消費者像にこだわるせいなのかもしれないが、
時計だってブランドがどこかよりも、文字盤がクールとか日付が入っていて使いやすい、とかのが大事な気がする。
その結果ブランド商品になるなら、俺はそれでいいと思う。
とにかく、俺は「ブランド商品ならそれだけで価値高い」というような嗜好が不思議なだけである。
そして、社会的に「ブランド」という無形資産が存在することは、とても面白いことだと思う。
最後に、自分にとってのブランドについて考えてみる。
学歴/職歴というブランドなど、自分にとってはほとんど価値がない。
しかし、高いレベルの環境に身を置いた、という意味での価値は非常に高い。
「一流」と言うブランドがあるものには、やはりそれなりの理由があるものだからだ。
そういう意味では、やはり「一流」と自分以外の人達が言うものを、
自分でも実体験してみて、その価値を自分なりに判断するべきだと思う。
そういう意味で、ブランドに対しては思考停止して礼賛するのではなく、
真っ向勝負で品定めをしてやる、ぐらいの気概が必要だと思う。
そして、「自分なりのこだわり」が出来れば、それが自分にとっての最高の「ブランド商品」なんだろう。
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